1/報
報せというものはいつだって突然だ。
望んでいようといるまいと、終りというものがそうであるように、それは突然にやってくる。
或いは、この世の全ては突然の積み重ねで出来上がっているのでは無いだろうか。未来を知る事は誰にもできないと言う――まぁ、彼自身はできないはずの事をやらかす人間を少なからず知っているが――が、もしそれが真であるなら、あらゆる事象は突然に起こる事になる。
つまるところ、全ては突然でしかなく。
だから、驚くような事もない。
「そー簡単にいくならだぁ~れも苦労しねーってんですよねぇ」
もう春も間近に迫った昼下がり、公園の一角に据えられたベンチにだらしなく腰掛けた少年は、抜けるような空へと悪態をつくようにそう呟いた。
太陽は高く、風もない。
一面を埋める水色に、ぷかぷかと浮かぶ白い雲。
絵に描いたようないい天気、文句のつけようもない休日の午後である。
空に向けていた視線を地上に戻してみれば、辺りにはそれなりに人の姿があった。
駆け回る子供の姿もあれば、腕を組み歩くカップルの姿もある――あれはうちの学園の生徒かもしれないなぁ、なんて事を彼は思う。この公園は学園からも程近く、繁華街からもそれほど離れていないため、割かし学園関係の利用者が多い。加えて、学園が近くにあるせいか治安もよく、たまにボランティアの生徒や結社がゴミ拾いなどに参加しているおかげで景観もいい。そんな訳で、休日ともなれば寮住まいの恋人達の格好の憩いの場となるのである。
「平和ですねぇ……」
そんな幸福感溢れる情景を見回して、よれよれにくたびれたコートを羽織った少年は猫のような大欠伸をするのだった。
まるで、他人事のように。
自分もまたそんな情景の中の一ピースであるはずなのに。
どこか遠い世界をガラス越しに眺めているかのように。
と、ちょうど少年が欠伸を終えるのを待ち構えていたように、少年の前に人影が立った。
「あのぅ……隣、かまいませんか」
それは男だった。
少年のそれと似たり寄ったりなよれた灰色のコートに、いかにも辛気臭いジャケットを合わせた四十半ばほどの男。白髪の混じった頭には、いつ洗ったのかも判らないほどにボロボロな鳥打帽が乗っかっている。どことなくパッとしない壮年の男の、見た目通りに弱々しい声に、少年は人懐っこい笑顔で隣を示した。
少年が少し端によると、男は重い荷物を下ろすようにベンチに腰を下ろした。
そうして、ふぅ、と溜息をつくと、ノロノロとした動作で取り出した新聞を広げる。
少年は少年でそれっきり興味を失ったかのように空を見上げ、サングラスを少し押し上げた。
『珍しいですねぇ、貴方の方から呼び出してくるなんて』
空を見上げたまま、少年は言った。
否、正確には、それは言葉にすらなっていない。少年の薄い唇がほんの少し揺れたか揺れなかったか程度に動いただけ。音としても、呼吸とさして変わらないほどの擦過音が漏れた程度だ。すぐ近くを偶然に通りかかった少女でさえ、全く気付かずに通り過ぎていく。
だが。
『悪いな。だが急ぎの用だ』
それに、答える声があった。
こちらもまた声とは言えない、少年が立てたのと同じような連続する擦過音。その音を立てているのは、少年の隣に座る壮年の男であるらしい。どうやら二人は、その擦過音の微妙な高低や連続の間断によって会話を成立させているようで、それはこの少年と壮年が明らかに真っ当な世界に生きる人間ではない事を示していた。
『ふん、またなにか“仕事”ですか……存外にこっちの人間も無能なんですねぇ』
『違う。今日の俺は本家の連絡員として動いていない』
『は? 家の方じゃあねーって事は……はて? デートのお誘いならお断りしますけど?』
冗談めかした少年の言葉に、壮年の男は新聞を畳んだ。
あちゃあ、怒らせちゃったかな、とさすがに謝ろうとしたその時。
『俺が、元々運命予報士だったのは知っているな?』
低く抑えた語調で、男が言った。
どくり、と。
震える心臓の音を、少年は聞いた。
『えぇ、まぁ、ね』
『今日は俺の視た予報を伝えに来た』
どくり、どくり。
心臓が痛い。
早鐘を打っているわけではない。鼓動のリズムは正常だ。
なのに、まるでその中で黒く太い蛇がのたうってでもいるかのように、心臓が痛い。
聞いてはいけない――そう少年は思った。
その先を言わせてはいけない。聞けば、きっと自分は終わってしまう。
そう思う。思うのに、少年はただ黙って男の言葉を待っていた。
時間が希釈されていく。一秒が一分にも一時間にも感じられる。
沈黙が怖い。このまま凍って死んでしまいそうだ。
そんな錯覚を少年が覚えた頃、男はようやく、口を開いた。
『――アイツが出たぞ』
告げられた言葉はあまりも短く、けれど、少年の全てを終わらせるには十分だった。
少年は空を見ている。
青い。抜けるような青い空だ。
いつか遠い日に、この空へ向けて呪いを吐いた。
あの日の憎悪は今も消える事無く、この胸に残っている。
いや、それは時を重ねるごとに、より深く、より黒く、よりおぞましく育っていった。
それが、今。
とても軽い音を立てて、自分の心臓を食い破ったのを感じた。
――ああ、終わったな。
どこか遠くでそう呟く自分の声を聞いて、少年は視線を下ろした。
『場所は?』
『アイツが篭っていたあの山だ。詳しい位置はお前の方が判るだろう』
『本家はもう?』
『まだ知らないだろう。だが、露見するのは時間の問題だ』
『……そうですか』
それだけを言って少年は口を閉ざした。
長身を折るようにして、膝に立てた手で口元を覆い、目を閉じる。
まるで、泣いているように。
そんなはずは、ないのだけれど。
泣く事なんて、少年には、できないのだけれど。
「………」
それっきり少年が黙り込んでしまったのを確認して、男は立ち上がった。もう話す事もないのだろう。畳んだ新聞紙を小脇に挟んで、どこかへと歩き出そうとする。
その背中に声がかかった。
「もう一つだけ、訊いてもいいですか」
先程までの暗号による音声ではなく、紛れもない、少年の言葉。
それに男は振り返る事無く「なんだ」と短く答えた。
「どうして、それを私に教えてくれるんです? 本来なら本家に直接報告するべき事のはずだ。それを何故、本家には黙っていながら私に教えてくれるんです?」
暫しの無言の後、男は空を見上げた。
さっきまで少年がそうしていたように。
高く遠い空に、今ではなく此処ではない、いつかのどこかを見ているかのように。
「アイツは、お世辞にもいい奴とは言えなかった。性格は悪い、口も悪い、頭は切れたが大抵はロクでもない方面にばかりで、いいところなんてこれっぽっちもなかった。付き合いだって長くはなかった。十年来なんてとてもじゃない、精々数ヶ月ぐらいだ。それだってたまに顔合わせるぐらいで、交わした言葉も数えられるくらいだ。正直言って、俺はアイツが嫌いだったよ」
それでも。
「それでも――アイツは俺のダチだった」
空を見上げる男がどんな表情をしているのか、少年からは窺い知れない。
それでも、やろうと思えば簡単に計り知る事はできただろう。そういう技術を少年は得意としていた。けれど、知ろうとは思わなかった。できれば知りたくもなかった。
少年は、ただ黙って男の背中を見つめていた。
やがて、男の視線が下がる。
何故だろう――その背中は、先程よりも少し小さく見えた。
男は、どこか疲れきったような、疲れる事に慣れてしまったような背中で言った。
「そのダチと同じ名前を、お前は持ってる。理由はそれだけだ」
答えは風に攫われる事もなく、ぬるい空気に解けて消えた。
もういいだろう、と言うように歩き出した男に、少年は頭を下げた。
その背中が見えなくなるまで、顔を上げる事はできなかった。
2/別
まだ日も空けぬ、早朝と言うより深夜と呼ばれるような時間帯。
がらん、と片付いた部屋を見回して、鳳凰堂・虎鉄は長い息を吐いた。
結社『寮つき手芸部』の有する学生寮・木漏れ日の館、その自室である。
板張りの室内には、元々備え付けてあったベッドの他には、何一つ残っていない。
彼の部屋を訪れた事のある者なら、部屋を間違えたかと思うだろう。足の置き場もないほどに散らかされていた雑誌やなにに使うのかも判らない怪しげな品も、彼が習性のようにどこからか拾ってきては積み上げていたガラクタの山も、服も、日記も、彼がそこに暮らしていた事を示すなにもかもが全て、その部屋からはなくなってしまっていたからだ。
「割と広かったんですね、この部屋」
唯一つ残されたベッドに腰掛けて、虎鉄は小さく笑んだ。
よく「片付けたらどうだ」とか「狭っ苦しい」とか言われていたが、成る程、こうして片付けてみればそう言いたくなる気持ちも判らなくはない。
けれど、自分はあの雑多な部屋が割と好きだった。どこになにがあるかたまに自分でも判らなくなって、そのせいでよく物が無くなったりした。うっかり床で眠りこけた時にガラクタが崩れてきて、危うく生き埋めになりかけた事もある。けれどそう悪い事ばかりでもなくて、物を隠すのには便利だった。山の底の方に隠しておいたとある人の写真なんかは、誰にも見つかってないだろう。いや、そういえばあれは高かった。体育祭の時にさる御仁から買い取ったものだが、たしか全部でン万円くらい飛んだんじゃなかったっけ。今にして思えば若かったなぁ、自分。もしバレてたら今頃ここにはいなかったんじゃないだろうか。社会的な意味でも生命的な意味でも。
「ははっ」
思い出す。
たくさんの思い出が次々に溢れ出してくる。
栓を抜いた樽のようだ。止め処無い記憶の奔流に、思わず笑みを作ってしまう。
振り返る日々はどれもキラキラと輝いていて、どんな宝石よりも美しかった。
例えば春の日。
新しいクラスに向かう朝、皆で一緒に正門を潜った。
たいようの光が眩しいくらいで、その光景を焼き付けてくれた。
例えば夏の日。
日が沈んでも嫌になるくらい暑くって、それでも皆同じ部屋にいた。
眠気さえ忘れて一晩中語り明かした、あの談話室のソファーの柔らかさを覚えている。
例えば秋の日。
学園祭の準備で遅くまで学園に残っていた夕暮れ、帰り道で追いついた見慣れた背中。
いい加減疲れてヘトヘトだったのに、寮のドアを開けた時には互いに笑いあっていた。
例えば冬の日。
凍えるような夜、駆け込んだ食堂に並んでいた温かい料理。
たまには失敗もしてたけど、誰一人残して席を立つ事はしなかった。
覚えている。
全部、全部覚えている。
この部屋に転がっていた幾つものガラクタ。
思い出が一つ増える度、自分は空っぽなガラクタを拾ってきた。
その一つ一つに思い出を詰めて、忘れないように残しておいた。
だから、あれはガラクタなんかじゃなくて、全部、私の宝物だった。
宝物をいっぱいに押し込んだ宝箱。
そこが私の家だった。
ここに、私の家族がいた。
冗談めかして、なるべく嘘っぽく笑ってたけど。
それだけは、嘘じゃあなかった。
けれど、それが今では空っぽで。
「……?」
不意に、虎鉄は物音を聞いた。
誰かが起き出してきたのかとも思ったが、どうやら違う。
少し考えて、ベッドの下を覗き込む。何も無かった。誰もいなかった。
姿の見えない同居人達はまだ寮内を遊びまわっている時間だ。
と、なると。
虎鉄はベッドから立ち上がり、窓にかかったカーテンを開けた。
「あぁ、貴方でしたか」
窓の外には一羽の烏がとまっていた。
鍵を開けて、烏を室内に招く。可愛げのない訪問者はいかにも偉そうな足取りで部屋の中まで入ってくると、一飛びしてベッドの上に収まった。慣れ親しんだ『友』の振る舞いに苦笑して、虎鉄は彼の対面の床に腰を下ろした。
真っ黒な友人は、部屋の中を不思議そうに見回している。
部屋を間違えたかと思う――とは言ったが、今まさに彼はそう思っているのだろう。
ひとしきり部屋を見回した後、彼はどこか責めるような目で虎鉄を見た。
――なにがあった?
と問われているようだった。
「もう要りませんから」
肩をすくめて虎鉄は言った。
烏はジッと虎鉄を見据えている。
短くもない付き合いのこの馬鹿な人間が何を言っているのか。
それを見定めようとするかのように。
時計の秒針が一回りする程の時間があって、烏は諦めたように視線を切った。
――嘘をついているようには見えない。
それが彼の結論だった。
「そうだ、ちょうど良かった」
そうして、彼が諦めるのを待っていたのだろう。
虎鉄は何気ない口調で懐に手を入れた。
取り出したのは、一枚のイグニッションカード。
彼がこの学園の能力者である事を示す証。
そして、今や彼のすべてが納められている、薄っぺらな宝箱。
「これ、あげます。まぁ、クロスケさんには使いようもないでしょうから、誰か適当な人に渡しちゃってください。多分、なんか美味しいものでも食べさせてくれるでしょう」
飄々と差し出されたそれを、彼は大人しく銜え取った。
――思えば、この人間に何かを託されるのはこれで何度目になるだろう。
人間に使われてやる事に不満が無かった訳ではないけれど、彼自身少しは楽しんでいるところもあった。何より、この空も飛べない生き物は、自分が届け物をしてやると笑うのだ。一番最初、ほんの気まぐれで、この人間が落とした耳につけている光る輪っかを届けてやった時から、なにも変わらずに。喜んで、笑って、この人間はありがとうと言うのだ――野生に生きる彼にとって、それは人間から向けられた敵意以外の初めてのものだったから。
だから、彼はその薄っぺらなカードを受け取った。
軽いはずのそれが、彼にはやけに重いものに感じられた。
「ありがとうございます」
そう言って、虎鉄は笑った。
酷くぎこちない、笑い方を忘れてしまったような、そんな笑顔だった。
今まで自分を笑わせていたものを全部無くしてしまったせいで、笑う事ができなくなってしまったような、つくりものめいた、そんな笑顔だった。
そして、虎鉄は立ち上がった。
無造作に後ろで括った、伸ばしっ放しの色素の薄い涅色の髪。
蛍光灯を受けて鈍く輝く、左耳に通した真鍮製のピアス。
いつも通りの、少し丈の合わないよれた土色のコート。
肩から提げたバットケースには、ただ一振りの日本刀。
今も尚鼓動を刻む心臓と、鳳凰堂・虎鉄というこの名前。
それだけが、彼の持っていたものだった。
鳳凰堂・虎鉄の持ち物だった。
ドアの前に立ち、少年は一度だけ部屋を振り返った。
がらん、と広い部屋。
ベッドの上に、一羽の烏。
――全部、知らないものだった。
だから、特になにも、想わない。
行ってきます、の言葉も無しに、鳳凰堂・虎鉄は寮を出た。
2.5/幕間
――同刻、鳳凰堂本家奥の殿
「彼奴めが動きまして御座います」
「……思ったより早かったわね」
「如何致しましょう」
「如何? 当然どちらも殺しますわ。私(わたくし)の父上の片腕を奪った男と、その名を騙る野良犬。生かしておく理由があるかしら? でも、そうね……どちらをと言うのなら、あの野良犬を先ず殺しなさい。あの方は死に損ないとは言え、一応は私の叔父上にあたる方ですものね」
「御意に――して、投入戦力は如何程」
「一班、四人も出せば十分。黒羽、朱羽、紫羽から一人ずつ精鋭を選んで組みなさい。指揮は、そうね……貴方が直接お取りなさいな。私の名を出せば嫌とは言えないでしょうし」
「謹んで拝命致します。装備の方は」
「………其処まで言われなければ動けないのかしら。無能ね」
「はっ、御叱責汗顔の至りに御座います。されど確実なる御命遂行の為なれば」
「いいわ……参式装備までの展開を許可します」
「有難き幸せに存じまする。畏れながら、最後にもう一つ」
「なにかしら」
「もし当家と所縁無き者が居合わせた場合、どのように処置致しましょう」
「つくづく無能ですわね、この駄犬。決まっているでしょう」
「――鏖、以外にあると思うの?」
「御意に」
「判ったのならお征きなさい。私、あまり気は長く無くてよ?」
「畏まりました、鉄虎お嬢様。総じて御意のままに」
3/再
太陽が昇る頃、少年はそこに立っていた。
目の前にはまばらに生えた木々と、行く手を閉ざすように生い茂る雑草がある。
ここが山の入り口だった。
道がある訳ではない。当然目印もない。
それは数多ある山と野の境界の一つに過ぎないのだから。
それでも少年には、そこが『入り口』なのだと判っていた。
否、覚えていた。
あの頃、自分は確かにここから山を下り、山へと帰って行ったのだ、と。
電車を下り、バスに乗り、最寄の町に降り立ってもまだ沸いてこなかった郷愁は、いまだ雪の残る山に足を踏み入れた途端、まるで波濤のように少年の全身を打ち据えた。胸の内で荒れ狂う感情の奔流は、深い下生えを踏み分けて奥へ奥へと入っていくほどに大きく、また強く心を絡め取っていく。今や吸い込んだ大気の味さえ違っているように思える。
目に映る全てが、まるで昨日見たもののように鮮明に、脳裏に焼きついていた。
ずっとずっと、覚えていた。
あの日から一分一秒たりとも忘れた事など無かった。
あの日から、夢の中で一体幾度この道を駆け上がっただろう。
両手にいっぱいの荷物を抱えて。
胸いっぱいの喜びを抱えて。
夢中で走った、あの道を。
今は、一歩一歩、踏みしめていく。
道無き道を進む足取りに迷いはなかった。そも、自分の家の中で迷う者がどこにいる。
この山は、少年にとって我が家も同じようなものだった。
だから、迷わない。
迷う事さえ、できない。
下草を掻き分け、木々の間を潜り、小川を跳び越え、傾斜を駆け上り。
六年の月日を越えて、少年はその場所に帰り着いた。
木々と木々の合間に、ぽっかりと開けた空間があった。
瞼の裏にあるそれよりもやや狭まったように感じるのは、自分が大きくなったからだろうか。
かつて身を横たえた小屋は歳月によって崩れ落ち、緑の中に埋没していた。
変わってしまったその場所に、少年はただ呆然と立ち尽くした。
――あぁ、帰ってきた。
変わり果てた風景に、遠い過日が追いついてくる。
それはいつかの夕暮れのワンシーン。一日の終りに行っていた手合わせ。一人での稽古を終えて帰ってくる自分を、その人はいつだってそこで待っていた。崩れた小屋は粗末ながらも確りと屋根を支え、空白のような空き地はその幅を広げ、周囲を囲う木々は見上げても尚見取れぬほどに高く伸び上がり、遠く天上を埋める青色は燃えるような茜に染まった。
今日(いま)が昨日(かこ)に塗り潰される。
遠い遠い、亡くしてしまった筈のあの日が甦る。
無論、それは錯覚だ。
小屋は崩れ落ちている。
空き地の面積は変わっていない。
木々はただ枝葉を揺らし。
仰いだ空は青く澄んでいた。
それなのに。
枝葉の隙間から差し込んだ陽光が陰落ちる地面に描く天然のモザイク。
その真ん中で。
「よぅ、遅かったな」
――彼だけが、何も変わらずに立っていた。
「先、生……」
確かめるように口にする。
或いは、目の前に立つその人さえも己の作り出した幻に過ぎないのではないか、と。
恐れていたのか、それとも期待していたのか。
それは少年にさえわからないけれど。
もっとも、どちらであろうと結果は同じだった。
「間抜け面して呆けてんじゃあねぇよ、馬鹿かてめぇは。おら、さっさと来い」
嘲弄を孕んだ声音で、男は言った。
その声に導かれるままに少年は空き地に足を踏み入れる。
このまま進んでもいいのだろうか。どこか頭の裏側で戦闘者として本能が警戒の声を上げたが、まるで自分の体が自分のものでないかのように、彼の足は止まる事をしなかった。思考と身体が切り離されている。熱に浮かされた時のような感覚を味わいながら、少年は男の前に立った。
「先生……っ」
変わっていない。
何も変わっていない。
皮肉げに持ち上がった口端、笑っていながら笑っていないという矛盾した視線。
世界に対して立つかのような堂々たる佇まい、そして、その声の響き。
いかにも適当に括られた長い髪も、長身を包む土色の外套も。
左耳で揺れる真鍮の輝きも、なにもかも。
変わっていない。何一つ。
記憶にあるままの姿で、『先生』はそこに立っている。
「虎鉄先生………っ」
血を吐くように、少年はその名前を呼んだ。
夢じゃない。
嘘でもない。
今、自分の目の前に、先生が立っている。
ただそれだけで、もう、少年にはなにも判らなくなっていた。
自分が喜んでいるのか、それとも怒っているのか、あるいは哀しんでいるのかも判らない。千々に砕けた心の欠片が混ざり合って溶け合わさって一つになって渦巻いて、胸の内側を突き破らんばかりに乱れている。伝えたかった言葉も伝えられなかった言葉も伝えたかった想いも伝えられなかった想いも全てが意味を無くし、その全部が我先に溢れ出さんとして喉を詰まらせる。
眼球の奥が焼けるように痛い。
湧き上がる感情に窒息してしまいそう。
呼吸が酷く難しい。
息の仕方を忘れてしまった。
生き方を忘れてしまった。
それとも、自分はもう死んでしまったのだろうか。
それなら、別にそれでもいい。
先生がそこにいる。
ただそれだけで、もう、なにもいらない。
或いは、少年は泣こうとしていたのかもしれない。
泣き方を思い出せたのかもしれない。
六年。
六年前に置いて来てしまったものを、取り戻せたのかもしれない。
けれど、それはやっぱり仮定の話でしかなく。
仮定とは所詮仮定でしかなく。
「好し、じゃあ俺を殺してみな」
――大抵の場合、現実にはならないものである。
4/死
「え…………?」
何を言われたのか、判らなかった。
間抜けのように、壊れたレコードのように、或いは鸚鵡のように、先生の言葉を反芻する。
――好し、じゃあ俺を殺してみな
殺す? 誰が? 誰を? いつ? どこで? どうして?
判らない。判らない。判らない。理解できない。
ああ、ひょっとして、また先生一流の冗談なのだろうか。そうだ。思えば私が先生の言葉を理解できなかった事なんて何度でもあるじゃあないか。いつだって先生は賢くて、私は愚かだった。いつだって先生は正しくて、私は間違っていた。だから、きっと私には理解できていないだけで、先生の言いたい事は他にあるんだ。そうだ。そうだ。そうに決まってる。絶対に。
私が今“理解している通りの意味”なんかであるはずが無い。
なのに、そのはずなのに。
「おら、早く抜けよ。それともそのまま始めんのか?」
先生は、まるで当たり前のようにそう言った。
「ど……どうして?」
「あぁ?」
「どう、してわた、私が……え? せ、先生を? な、んで………?」
言葉がうまく話せない。
バラバラと千切れては零れ落ちていく。
何を言うべきだったのかさえ判らない。
ああ、そもそも、言葉ってなんだっけ。
「嫌、嫌……です。違う、嘘だ……わた、俺は、俺は……先生を、殺す……?」
「なに言ってんだ阿呆かてめぇは。ちゃんと喋れちゃんと」
「ぁ……ぅ」
無理だ。できない。ちゃんと喋れなんて言われても、できないよ。
足が震える。ガクガクと。感覚さえも消えていく。
地面が無くなってしまったようだ。
空に落ちていくようだ。
今、自分が立っているのか座っているのかも判らない。
それでも、先生が喋れと言ったから。
私はなんとか言葉を搾り出せた。
「ど、うして……私が先生を、殺さないと……いけないんですか」
「どうしてって、てめぇそのためにいるんだろうが」
「ち、違う……違います、わ、たしは………」
「じゃあ何のために此処に来た? 聞いてやるから言ってみろ」
なんのために。
私は――私は、なんのためにここに来たのだったか。
思い出せない。確かに、確かに理由があったはずなのに。
まるで、バラバラだ。
まるで、ガタガタだ。
渇いた泥人形みたいに、私の中が崩れていく。
「わ、たしは………俺は……嫌だ」
「ふぅん、じゃあなんでてめぇは刀を提げてんだ?」
「え?」
言われて、見て、そうして初めて気が付いた。
いつの間にか。
本当にいつの間にか、自分でも気がつかないうちに。
私の手には黒塗りの鞘が握られていた。
足元を見れば、鞘を収めていたはずのバットケースが落ちている。
「あ、れ?」
なんで。
なんで?
違う。違う、違う。
ちがうちがうちがう!
おかしい、こんなはずじゃない。
私は先生と戦う気なんてないんです。
戦うために来たんじゃないんです。
だってそうだ。
私はもう、一度、先生を■してしまったんだから。
■したくなんてなかったのに。
■してしまったんだから。
だから、だから私は。
私は。
私は――
「てめぇは俺を殺しに来たんだろう。その刀で。俺の刀で、な。よぅ、気付いてねぇとでも思ってたか? その髪型、そのピアス、そのコート、あと口調もだな。そりゃあ、俺だろ? 違うか? 違わねぇよなあ?」
違わない。
この髪型も。ピアスも。コートも。口調も。そしてこの刀も。
全部、先生のものだった。
それだけじゃあない。
私の全部は先生のものだった。
私のものなんて何一つとしてなかった。
だから、だから。
だから私は。
私は、先生――
「詰まるとこ、てめぇは俺になりたいんだろう?」
先生、あなたに――
「まぁ、全部くれてやるとは言ったからな。別にそりゃあ構わねぇよ」
あなたに――
「だから、欲しいなら殺して奪えって言ってるのさ。勿論、てめぇに俺が殺せるなら、だがな」
かちゃり、と鍔鳴りの音がする。
気付けば先生は一振りの刀を提げていた。
いつ、どこから取り出したのかさえ見えなかった。
まるで最初からそうであったかのように、左手に握られた黒い鞘。
知っている。その拵え。その形。忘れられるはずも無い。
黒塗りの牙――鳳刀『絢女』。
今、私が手にしているのと同じ刀。
それを手に、先生はいっそ緩やかとさえ言える動きで構えた。
納刀したままの牙を腰に、重心が僅か下がる。
居合いの構え。
抜かば死、とさえ語られる、一撃必殺の構え。
「それだけさ。あとは、別に要らねぇだろう」
思えば、先生の構えを見るのは初めてだったかもしれない。
一見すれば脱力しているようにさえ思えるその姿。自然体、と呼ぶに相応しい。その形こそが本来の在り方であるかのように動かない。あまりにも静寂とした、その構え。添えられた右手は柄に指先が触れる程度に浅く。けれど、今にも跳びかからんとする蛇の鎌首を思わせる。
殺意は無い。敵意も無い。
害意も無い。悪意も無い。
ただ、近付けば死ぬという事実だけがある。
これが。
これが――鳳凰堂・虎鉄が構えるという事か。
「ほれ、かかってきな小僧」
先生が笑う。
あの頃と同じ、馬鹿にしたような、嘲るような笑顔で、先生が笑う。
あの日と同じ、とても強くって、とても優しい笑顔で、先生が笑う。
ああ、けれど。
けれど先生、違うんです。
私は。
私は、先生。
貴方に――
「――殺して欲しくて、此処に来たんです」
そうして、私はとうとうその言葉を伝える事ができた。
先生の顔から笑みが消える。
それはとても悲しかったけれど、それでも、私は伝えなきゃいけないから。
「先生」
「あぁ?」
「少しだけ、私の話を聞いてくれませんか?」
「………」
短い沈黙の後、先生は構えを解いた。
無言で先を促す。
だから、私は言葉を紡ぐ。
あれほど難しかったというのに、最初の一言を口にした途端、言葉は流れるような滑らかさで形を成していった。バラバラだったピースは理路整然と整列し、ガタガタだった感情は一つの結末に向けて澱む事無く組み上がっていく。何を言うべきで、何を言うべきでないのか。それは些事でしかないという事を悟る。伝えるべき事を、伝えるべきままに。この伽藍堂を溢れんばかり満たすものを、そのままに口にすればいい。そう決めて、唇を開く。
私の想いを、伝えるために。
「あの日から……先生を殺してしまったあの日から、私はずっと鳳凰堂・虎鉄として生きてきました。鳳凰堂・虎鉄を名乗り、鳳凰堂の家に入り、鳳凰堂の剣を振るい……あの家は、あまり楽しくなかったけど、それでも我慢できました。鳳凰堂・虎鉄として生きるためだと思えば、全然平気だったんです」
そう、それはあの日からの記憶。
私が鳳凰堂・虎鉄として歩んできた道のり。
「何人も殺して、何人も殺して、何人も殺してきた。生きているのも、死んでいるのも、殺してきた。でも、それも平気だった。だって、先生が教えてくれたから。守るために力を振るえって、そう言ってくれたから。だから、どれだけ殺したって平気だった――むしろ嬉しかった。殺すのは楽しかった。一つ剣を振る度に、守るために殺す度に、俺は先生の教えを守れていたんだから」
そう、それはあの日からの在り方。
俺が鳳凰堂・虎鉄として選んできた生き方。
そこに後悔は無かった。
後悔はいつだってしていたけれど、その歩んだ道のりに、その選んだ生き方に、後悔はない。
「けど」
けれど。
「あの人達だけは――違った」
斬って、斬られて、騙して、騙されて、裏切って、裏切られて、傷つけて、傷つけられて。
そうして、辿り着いたあの場所。
もう思い出す事もできないけれど。
あの学園で、出会った人達は――
――優しかったんだ……
「――それが、堪らなく、嫌だった」
ぎちり、と。
噛み締めた唇が血を流した。
「笑いかけられる度に吐き気がした」
「誰も彼も幸せそうで気持ち悪かった」
「楽しそうにしているのが憎かった」
「話しかけられるだけでおぞましかった」
「同じ時間を過ごすのが耐えられなかった」
だって――
「あの人達の優しさは、全部『僕』に向けられていたから! 僕じゃ駄目なんだ! 先生じゃないといけないんだ! 鳳凰堂・虎鉄じゃないといけないんだ!! 僕じゃないんだ!! 僕にそんな資格はないんだ!! 全部先生のものなんだ!! それなのにっ!!」
叫んだ。
喉が裂けるほどに、血を吐くほどに叫んで、それでもまだ足りなかった。
言葉は次々に溢れてきて、もう止まらなかった。
堰を切ったように、僕は僕をぶち撒けた。
「それなのにあいつらは、全部僕に押し付ける!! 押し付けて、いっぱいにして――私を埋めていきやがる!! 違う違う違う違う違う違う違う違うだろっ!! そうじゃない、そうじゃないんだよ! 私じゃ駄目なんだ! そんな事するなよ余計なお世話なんだよ! 笑うな喜ぶな楽しそうにするな話しかけるなそこにいるな! 羨ましいんだ、羨ましいんだよっ! 見せ付けるな! なんのつもりなんだよ嫌がらせか! やめてやめてやめてよぅ! 僕はもう要らないんだよ! 僕なんていらないんだよ!! 鳳凰堂・虎鉄がいればいいんだ! 私はいらないんだ! なのに、なんで俺を生かしてくれない!? なんで私に構うんだ! 僕はいらないって言ってるだろ!? うぅぅ、ぅぅぅぅ……っ!! 嫌なんだ、心底本当に嫌なんだ! お願いだから、お願いだから――僕から先生を取らないでよぅ!!」
肺の中の空気を全部声に換えた。
それでもまだ足りなかった。
身体の中の全部を声に換えた。
それでもまだ足りなかった。
何が足りないのかも判らないくらい、からっぽだった。
悲しいくらいにからっぽだったはずなのに。
僕のなかは、いつの間にか、こんなにもいっぱいになっていた。
「笑いかけられるのが嬉しかった!」
――嬉しくて、自分が鳳凰堂・虎鉄である事を忘れそうになった。
そんな自分が許せなくて、吐き気がした。
「その幸せを分けてくれたのが嬉しかった!」
――嬉しくて、自分が鳳凰堂・虎鉄である事を忘れそうになった。
そんな自分が醜悪すぎて、気持ち悪かった。
「一緒に楽しんでくれたのが嬉しかった!」
――嬉しくて、自分が鳳凰堂・虎鉄である事を忘れそうになった。
そんな自分が堪らなくて、憎かった。
「話し相手になってくれたのが嬉しかった!」
――嬉しくて、自分が鳳凰堂・虎鉄である事を忘れそうになった。
そんな自分が愕然として、おぞましかった。
「同じ時間を過ごせただけで嬉しかった!」
――嬉しくて、自分が鳳凰堂・虎鉄である事を忘れそうになった。
そんな自分に、耐えられなかった。
「僕は――鳳凰堂・虎鉄じゃあないのに!!」
それが、答。
僕に突きつけられた解答だった。
先生が――鳳凰堂・虎鉄が得るはずだった幸せを、喜びを、美しいものを与えられてしまった私は、それを嬉しいと思ってしまった。それを否定しようともした。拒絶しようともした。けれど、それはなんて愚かな行為だったのだろう。『私』が『鳳凰堂・虎鉄』であるのなら、私には『私』に向けられた笑顔を拒む理由なんてありはしないのに。
つまりは、それが終り。
僕は私を拒絶するあまり、自分が鳳凰堂・虎鉄である事さえも否定してしまったのだ。
そうして、私は鳳凰堂・虎鉄じゃなくなった。
そうしたら、判らなくなった。
僕って誰だ?
私って誰だ?
鳳凰堂・虎鉄じゃない自分は、誰なんだ?
答えは割とあっさりと見つかった。
或いは、ひょっとして、最初から知っていたのかもしれないけれど。
僕は――先生を殺した敵だ。
それが、自分だ。
だから、殺さないといけない。
けれど、殺してはいけない。
僕が死ねば鳳凰堂・虎鉄が死んでしまう。
それだけは、許せなかった。
だから、殺してはいけない。
けれど、殺さないといけない。
抜け出せない矛盾は自らの尾を食む蛇のように、僕の心臓を締め上げた。
ギリギリと、締め上げた。
戒めのように、鎖のように、僕を死から遠ざけた。
死にたかったのに。
死なせて欲しかったのに。
あの日、あの時、あの場所で。
あの夕焼けの――黄昏の中で。
「ずっと、ずっと、私は、死んでしまいたかった」
閉じていた目を開く。
そこに、先生が立っている。
鳳凰堂・虎鉄が立っている。
ああ、だから。
私には最初から、先生を殺すつもりなんてなかった。
だってこれは――復讐なのだから。
先生を殺した僕を殺すために、私が仕掛けた、敵討ちだったのだから。
だから、ねぇ。
先生。
「僕を、殺してください」
まっすぐに。
愛しい人へ。
こころから。
贈る、言葉。
「鳳凰堂・虎鉄を――お返しします」
「だが断る」
………。
……………え?
「な、なんで?」
「なんでも糞もあるか。要らねぇよそんなもん」
苛立たしげに、吐き棄てるようにそう言って、先生が僕に背を向ける。
「ったく、わざわざ人が死んでやったってのに、出来上がったのがそんなのか。期待外れにも程があるだろうが。あーぁ、化けて出て損した」
「ぁ、待って……待って、ください」
あなたに。
貴方に見捨てられたら、私は。
「待たん。てめぇにゃ興味が失せた。もう知らん。死にてぇならそこらで勝手に首でも括れ」
棄てられる。
捨てられる。
最後に残ったはずの全てが、根こそぎに棄却される。
判らなくなる。
また、何も判らなくなる。
鳳凰堂・虎鉄ではない自分は、あんまりにも無力すぎて。
判らない。
わからない。
自分も。世界も。
笑い方も。泣き方も。
なにも、なにも、わからない。
ああ、だから、教えてください。
お願いです。
だったら。
私は、なんだったのですか?
私は、なんのために、今まで、生きてきたのですか?
フラフラと、前に進む。
支えを失った子供のように。
縋り付くものを求めて、フラフラと。
倒れてしまいそうだ。
壊れてしまいそうだ。
それとも、もう壊れているんだっけ?
わからない。
わからないままに。
その背中に、手を伸ばす。
それはなんと愚かしい行為だったのだろう。
自分の手には、今も刀が握られていて。
先生の手には、未だ刀が握られていて。
ああ、そうなれば――
己が間合いに牙持て立ち入る者を、彼がどうするかなど、とっくに知っていたはずなのに。
「うぜぇよ、糞餓鬼」
――そうして私は、風よりも速く宙(ソラ)を裂く、鉄(くろがね)の牙を見た。
気が付けば。
先生が、こちらを向いていた。
先生が、私を見てくれていた。
先生が、言葉をかけてくれていた。
先生が、私の声を聞いてくれていた。
先生が、私に気付いてくれていた。
ああ、それは、なんてシアワセなこと。
けれど、その目は。
そんな、要らないものを見るような目は。
そんな、価値の無いものを見るような目は。
あなたにだけは、そんな目で見られたくなかったのに。
ねぇ、先生
わたしは
泣いてしまってもいいですか?
一拍を置いて開いた傷口から、自分のものとは思えないくらい、綺麗な綺麗な赤色が。
キラキラと噴き出した。
5/終
振り向き様、斜めに斬り上げられた少年は、それでもまだ倒れなかった。
腰元から左肩までを真っ直ぐに走る太刀傷は明らかに致命の類。皮も肉も骨も、諸共に断たれている。或いは臓器の幾つかも傷ついているのだろうか、そうしている間にも少年の口からは大量の血が溢れ出し、その口元を赤く汚した。最早呼吸すらままならないだろう。
それでも、少年は倒れない。
呆然と。
自分が斬られた事になど気付いてもいないかのように。
否、斬られた事など、まるでどうでもいいかのように。
表情の無い、作り物めいたからっぽの顔で、ただ呆然と立ち尽くしている。
「畜生が」
その対面、止め処無く零れ落ちる血に足元まで染める少年の前で、たった今その胸を切り裂いた凶器――それはいかなる技量の成す業か、黒塗りの刀身には一滴の血も残ってはいなかった――を無造作にだらりと下げた男は、いかにも忌々しげに吐き捨てた。
「踏み込んでくるから斬っちまったじゃあねぇか」
心底不愉快そうに。
或いは面倒臭そうに。
男は言う。
二人の距離は変わらず、少年は未だ男の間合いの中にいる。
一足一刀の間合いとは言うが、この距離ならば腕の動きだけでも男は少年を斬殺できるだろう。
「まぁ、いいか。一度抜いちまったもんは仕様がねぇ」
男の右手が上がる。
黒い切っ先が持ち上がる。
少年は動かない。
黒い切っ先が胸に添えられる。
「そこらで勝手に死ねとは言ったが――撤回だ。此処で死ね」
なんの躊躇いも無く男は少年の心臓を串刺した。
寸前、その気配に気付いていなければ、だが。
その気配――殺気と呼ばれるそれが向けられた方向に、男は肩越しに振り返った。
即ち、己の後方である。
そこに彼らはいた。
影に溶けるような黒い戦闘服に身を包んだ四つの人影。ぱっと見には判らないが、それぞれ戦闘服の一部に鳥の羽を模したエンブレムを有している。色は黒、朱、紫、そして白。そのエンブレムの意味を、男は知っていた。
――本家の実動部隊か! タイミングの悪い!
それを認識した瞬間、男は今にも少年の心臓を貫こうとしていた剣を止め、横に飛んだ。
そいつらが鳳凰堂家の私兵集団の中でも映え抜きの刺客だという事を――他に気を取られていたとは言え、この距離まで自分に気取られずに接近できるだけの精鋭であるという事を――一瞬で理解したからである。そして何よりも、突如現れた彼らの構える明らかに合法規格外な突撃拳銃の筒先が自分達をポイントしており、その引鉄が今まさに引かれんとしている事を感じ取ったが故の回避行動だった。
この男の行動に対し、刺客達は動揺した。
彼らからしてみれば、それは感付かれるはずのない必殺を期した布陣だったのだ。
四人がこの場所に到着した時、まず最初に聞こえてきたのは少年の声だった。その声調から自分達の目指す先でなにかが起こっている事を察知し、それを利用するべく大きく迂回してここにやって来たのである。
果たしてそれは正しかった。崩れた小屋の陰に身を潜めた彼らが見たものは、標的の一人がもう一人の標的を斬りつけた瞬間だったのだから。彼らは与えられた命令を実行すべく、すぐさま行動に移った。即ち――目前の二人を纏めて抹殺するべく銃口を向けたのである。
だが、ここに一つの誤算があった。
彼らは、標的の戦力を侮っていたのだ。
四人は男の推測した通り、それぞれが所属する部隊でも精鋭中の精鋭。数々の任務を成功させた百戦錬磨のプロフェッショナルだった。加えて、彼らの基本戦術は暗殺である。戦わずして、標的に気付かせる事さえなく殺害する、それが彼らにとっての戦闘なのだ。それ故に、全く思ってもいなかった。まさか、まさか気配を消した自分達を捕捉できるような埒外の存在がいようなどと!
だが、それでも彼らはプロだった。
予想範囲以上の実力を持つ標的への驚愕も束の間、ゼロコンマ以下の時間で動揺していた思考を切り替えると、いまだ照準の中に残るもう一方の標的へと向けて一切の躊躇無く引き金を引いた。
サプレッサーを通したフルオート射撃のどこか間抜けな銃声が連続する。
少年は。
自分自身から流れ出た血溜まりの中で、ただただ立ちつくしていた少年は。
避ける事も、防ぐ事もせずに。
音速を越えて飛来する弾丸の雨に全身を貫かれて。
そのあまりの衝撃にもみくちゃに吹き飛ばされて。
胸を裂く刀傷と全身に開いた弾痕から鮮血を撒き散らかして。
そして、そのまま傾斜を転がり落ちていった。
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