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虎鉄語:再誕と死、そして


よぅし、皆そろそろ忘れてるだろう!

鳳凰堂・虎鉄過去編。
『虎鉄語(こてつがたり)』第三話の更新でございます。

あ、一応前の二話はこちらでございます。
あと、幕間が異常に長くなってしまったので別に分けました。
本編とはあまり関係ありませんが、気が向けばどうぞ。

虎鉄語:誰も知らない話

虎鉄語:幕間、そして二度目と初めての終り

虎鉄語:彼女の事情


 産声は誰にも響かない。
 笑顔で迎える人は無い。
 冷たい闇に包まれて。
 母の御手さえ知らぬまま。
 独りぼっちの檻の中。

 少年は、生まれた。


 prologue3 / birth  ̄ the silver moon blooms in the oversky

   
 暗い暗い場所で、少年は目を覚ました。
 自分の体温であたたまった布団から這い出して、辺りに満ちる闇を見回す。
 伸ばしっぱなしの髪がバサバサと揺れた。
 その、鳥のはばたきにも似た音と、自分が動いた事による衣擦れの音。
 冷たい空気を吸い込んでぬるい空気を吐き出す音と、胸の奥で息衝く鼓動。
 それ以外の音は聞こえない。
 いつものことだった。
 ボロボロに綻んだ畳の上に直接敷かれた布団に腰を下ろして、
 猫のように大きなあくびをする少年の目の前には、何か奇妙なものがあった。
 賽の目を描くように交差した、何本もの鉄の格子。それが、部屋の一面にしっかりと填まっているのだ。そして残りの三面、それと天井は剥き出しの岩壁になっていた。それこそまるで牢獄のように……ではなくて、そこは本当に牢獄なのだった。
 何故こんな場所に閉じ込められているのか。
 それを、少年は疑問に思ったことが無い。
 そもそも、牢獄というものの意味も、どころかその名称自体を知らなかった。
 少年は生まれた時にはもうそこにいた。
 少なくとも、思い出せる限りの一番古い記憶はこの冷たい闇の底でのものだ。 
 だから、少年がそれを不思議に思う事は無い。
 窓の無い地下の暗闇。
 肌を裂くような冷たい空気。
 狭く閉ざされた密室。
 日に三度、鉄格子の向こう側から運ばれてくる食事。
 そして、食事を持ってくる、自分とは違う動くもの。
 それだけが、彼にとっての世界の全て。
 それは――なんて幸せな世界だったのだろう。
 完成されたサイクル。閉じた楽園。
 暗く冷たい原初の世界(シキュウ)の中で、いずれ来る堕胎(タンジョウ)の時も知らぬまま、
 少年は一人微睡んでいた。

 少年がその檻の中に閉じ込められてから、四年。
 終りは彼の知らないところで起こっていた。
 けれど、まぁ、やっぱり知らないものは知らないものでしかなくて。
 それでも、少年の平穏は突然に終りを告げるのだった。

 ある日の事だ。
 いつも決まった時間に運ばれてきていた食事が、運ばれてこなかった。
 時間と言ってもその牢獄に時計などある訳もなく、
 あったところで時間という概念すら知らない少年にはあまり意味は無かったのだけれど。
 皮膚感覚、そして空腹感の度合。
 一定化された生活サイクルが、その違和感を少年に告げていた。
 けれど、だからと言って少年に何かができる訳でもない。
 少年はひとしきり格子の向こうに声を――それは言葉としての意味を持たない、雛が親鳥に餌を催促する鳴き声のようなものでしかなかったが――かけてみて、そのうち疲れて寝床に潜り込んだ。
 しばらくして目を覚ます。
 やはり、食べ物は運ばれてきていなかった。
 人間としての知識を学習する事の無かった少年は、その本質においては獣に等しい。
 空腹という衝動は、本能にとって無視できないものであった。
 格子の向こうへ、食事を催促する。
 今度は声だけでなく、格子を揺らしてみる事もした。
 頑丈な鉄格子は少年の力ではビクともせず、鳴き声もまた地下の闇に解けて消える。
 知性ではない部分が、無駄だと悟る。空腹は収まらない。
 ふと思いついて、格子に噛み付いてみた。食べられない以前に歯が立たなかった。
 次に、床に敷かれた畳。その次は寝床。最後には自分の排泄物にまで。
 全て、食べられなかった。
 噛み千切る事ができたものもあったが、飲み下す事を体が拒否した。
 そうして、いつの間にか少年は気を失っていた。
 次に目を覚ました時にも、やはり食べられるものは無かった。
 崩れた生活サイクルに時間の経過も判らなくなる。 
 体温の低下が酷い。
 栄養(カロリー)を断たれた体では、熱を生み出す事はできない。
 這いずるようにして寝床に戻り、自分の体を抱えて震えた。
 気がつけば、また眠っていたらしい。
 寝床の中で少年は目を覚ました。
 時間の経過など、とっくのとうに判らない。
 ただ、どうしようもない餓えだけがある。
食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。
 暴力的なまでの飢餓。
 それは抑え難い衝動となって、少年の身を炙る。
食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。
 細く、肉の落ちた手で畳を掻く。
 ブルブルと震える脚で布団を蹴る。
 だらしなく開いた口端から伝って落ちる涎の雫。
 ケダモノものように床を這い、少年は目の前を塞ぐ格子にすがりついた。 
 カラカラに渇いた喉では声を紡ぐ事もできない。
 枯れ枝のような指を冷たい格子に絡めて、揺らす。
 やはり、これっぽっちも動かない。 
食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。
 この時、少年の胸に生まれた感情は何だったか。
 どうして邪魔をするのだろう。
 そんな疑問か。
 否である。
 疑問などというものを持てるような知能は、少年には無い。
 あるものはもっと、原初の衝動。
食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。

――飢餓に焼かれる少年の、一番奥の深いトコロで、燻り続ける炎の色は

 少年の手が黒く染まる。 
 地下牢に満ちた闇が、その闇の中にあって尚昏い影が立ち上がる。
 異常な光景。少年の細腕に纏わり付いた影は、まるで剣を象るように。
食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい!
 
――憎悪という感情に、とてもよく似ていた。

 ざくり。
 少年の手――黒影に包まれ、歪な刃となった手は、いとも容易く鉄格子を切り裂いた。
 ざくりざくりざくり。
 さらに数度、黒い“刃”が振るわれる。
 耳障りな音を立てて、長きに渡り少年を閉じ込めていた檻は崩れ落ちた。
 常識で考えれば在り得ない光景であり、在り得ない現象である。
 だが、それを疑問に思うための“常識”というものもまた、少年は持ち合わせていない。
 鉄格子に開いた穴をくぐり、狭い通路に出る。
 未知の世界への恐怖は無い。ただ、抑え難い飢餓だけがある。
 通路には照明のようなものは無かったが、
 ずっとその暗闇の中で生きてきた少年にとってはそれほど苦にもならなかった。
 手探りで通路を進む。
 四肢を床についたその姿は人より獣に近い。
 ほどなく、それまでとは違う感触が指先に触れた。
 壁ではない。少年は壁というものを理解しておらず、ただそれ以上進めない場所程度にしか認識していなかったが、それとは違う感じがした。閉じ込めるような圧迫感は無く、事実、上の方には何も無かった。
 当然少年が知る筈も無いが、それは階段であった。
 一段目に手を突く。最初はおそるおそる。まだそれが壁ではないという確信は持てなかったから。二段目。少し高さ――高低の概念もまた少年には無かったが、腕の曲がり具合でそれに近いものを知覚する――が変わったようだが、指先に触れるものは無い。壁ではない。進む事ができる。そうと判ってからは早かった。腕を上げて腕を下ろす。足を上げて足を下ろす。
 脚はまだ震えている。指先は凍えている。
 どうしようもない飢餓が体の内側で燃えている。
 けれど、それ以上に。
――少年には予感があった。
 這い進む。
 上り詰めていく。
 やがて、それ以上進めなくなった。頭の上に壁がある。問題は無い。
 どうすればいいかはもう知っていた。腕を振る。
 ざくりざくりざくり。
 硬い物が幾つも落ちてきて、少年の全身を打ち据える。
 痛い――生命としての危機信号。
 本能からの警告を、けれど少年は意に介さない。頭上に開いた穴から這い出る。
 そこもやはり真っ暗な空間だったが、ついさっきまでいたあの底に比べれば随分と明るかった。
 硬い、板張りの床に足を着く。平らな床など初めての経験で――地下牢に敷かれていた畳は劣化してボロボロだったし、地下通路は剥き出しの地面だった――その感触に少年は驚いた。
 冷たくて、ツルツルしてる。
 もしも彼が言葉を知っていたのなら、そんな風に思ったのかもしれない。
 けれど、この時点では、少年はまだ中途半端だった。
 生れ落ちる前段階。人ではなく、かと言って獣でもない生き物は震えながらも二本の足で立ち上がり、フラフラと、目の前にある扉へと歩いていく。
 誘われるように、フラフラと。
 木製の、分厚い扉に手を当てる。
 ざくりざくりざくり。
 躊躇いの無い動きで道を作る。
 がらりがらりがらり。
 転がる破片を乗り越える。
 胎児が長い産道(じごく)を越えていくように。
 安息の子宮(ねどこ)から排斥されるように。
 
 そうして少年は、世界と出会う。

 白。
 雪が積もっていた。
 一面の銀世界と人の言う、そんな光景。
 夜。
 外(せかい)は明るかった。
 時間としては真夜中もいい所。
 それでも、そこは光に溢れていた。
 そして、空。
 宝石箱をぶち撒けたような満天の煌き。
 その中にあって尚、一際輝くまんまるな月。
 高い高い空の上で、銀色の月が咲いている。
 あの冷たい揺り籠には無かった、なによりも美しい光。
「ぁ……ぁーあ」 
 少年は。
 自分でも気づかぬうちに泣いていた。
 ぽろぽろと零れ落ちた涙が、柔らかな雪を溶かす。
 乾涸びていた筈の喉は痛みと引き換えに、小さな音を紡いだ。
「あぁ……あー、あぁあーぁ」
 燃えるような飢餓を忘れた。
 喉の裂ける痛みさえ遠い。
「ああぁー、ああああーー、あぁぁああー」
 ただ真円の月を見上げて。
 少年は、生まれて二度目の産声を歌った。


 その日、柴村・貴一は一人だった。
 自分で作った簡単な夕食を済ませて、一息ついた頃の事である。
 お気に入りの杯に手酌で酒を注ぎ、ふと思う。
 そういえば、こうして一人きりで酒を飲むなど何年ぶりの事だろう。
 前の妻と死別し、今の妻と再婚してからの数年、晩酌にはいつも彼女が付き合ってくれていた。
 卓上に並べられたいくらかのつまみと酒。隣には妻の笑顔。
 朝早くに仕事に出て、遅くに帰る。
 他にこれと言って娯楽も無い、穏やかだけれど退屈な村での生活。
 そんな中で、家族と過ごすひとときは貴一にとって何よりの楽しみだった。
 けれど、ここ数日家族は家を空けていた。
 五歳になる娘が風邪をこじらせてしまい、町の病院に入院する事になったのだ。妻はその付き添
いとしてついて行って、ここ三日ほど帰ってきていない。もちろん貴一だって娘の事は心配だったが、働かなければならない身の上としては泊り込む事もできない。今日も仕事帰りに十分ほど見舞いに行ったきりである。
 そうして、一人でここにいる、という訳だ。
 特に燗をしたわけでもない酒を呷る。
 喉を焼く感触はいつもと変わらない。なのに、どこか味気なく感じる。
 静かな夜だった。
 先程まで降っていた雪も、どうやら止んでしまったらしい。
 無音が肌に沁みる。この家に自分以外の誰もいないという事実を突きつけてくるようだ。
 ああ、一人というものは、こんなに寂しいものだったのか。
 体はアルコールの反応でほのかに熱いというのに、凍えるような寒さがあった。
 少し感傷的になっているのかも知れない。
 今日はもう眠ってしまおう。それで、明日は早めに仕事を切り上げて、少しでも長く家族の傍にいよう。寂しかったから、なんて言ったら彼女は笑うかも知れないけれど、きっと喜んでくれるだろう。娘はどうだろう。頼りない父親だなんて思われたりしないだろうか。まぁ、それもいいさ。可愛い“たった一人の我が子”なんだから、親馬鹿くらいは許してもらおう。
 想像すると、年甲斐もなく明日が楽しみになってきた。
 小さく笑みさえ浮かべながら、彼は腰を上げる。
 失くしたものの事など、思い出しもしなかった。

――その泣き声を聞くまでは。

「何だ?」
 最初は犬の遠吠えだと思った。どこかで犬が鳴いている。
 すぐに違うと判った。犬じゃない、どちらかと言えばそれは、そう、赤ん坊の泣き声だ。
 次に、疑問が生まれた。一体どこから聞こえてくるのか。
 それもすぐに判った。この声は、すぐ外から聞こえてくる。
 彼は、自分が震えている事に気付いた。
 正体の判らない予感にガタガタと定まらない足取りで縁側に向かう。
 庭先に面した雨戸を開ける。
 そこに。
 棄て去った筈の、古い傷痕を見た。
 雪が積もっている。一面の銀世界。
 雲は晴れている。満天の星空。
 月が出ている。中天に咲く、銀色の月。
 そして、その下を歩く小さな子供。
 一度も切った事が無いのだろう、色素の薄い涅色をした長い髪。
 十分な栄養など得られなかったのだろう、触れれば折れてしまいそうな線の細い体。
 日の光を受けた事なんてないのだろう、病的に白い肌。
 手の平に落ちた粉雪と例えるには余りにも脆弱すぎる、儚げなその姿。
 それでも、たしかに『彼女』の面影を残した幼子が、幻のようにそこにいた。
「あ、あぁ……」 
 庭に下りる。
 雪の冷たさは刺すように裸足のままの足を苛んだが、貴一は構わず走り出した。
 足首が埋まるほどに積もった雪に足を取られながらも、その子のもとに辿りつく。
 その子供は、彼になど気付いていないように、ただ空を見上げて歩いている。
 それとも、見ているのは月だろうか。
 どちらにせよ、まっとうな正気を備えているようには思えなかった。
 近付いて見れば、その体は同年代の子供に比べて明らかに細い。
 枯れた枝を継ぎ接ぎしてこしらえた人形のように、少年は痩せ細っていた。
 身に纏っているのは擦り切れ薄汚れた襤褸布のような着物一枚。
 はだけた衿から覗く胸は薄く、あばら骨が浮き出している。
「ぅ、あ、あぁ……」
 あまりにもむごい。
 人間としての尊厳を剥奪された姿。
 人としての幸福を奪い取られた命。
 誰がそんな風にした?
 甦る。蘇る。
 遠い冬の夜、痛みの記憶と共に葬り去った過日が、この瞬間へと戻ってくる。
 
――だから、あなた。
  どうかこの子を愛してあげて。

 そう微笑んだのは、誰だった?
 
――私を愛してくれたように、この子を愛してあげてください。

 そう願われたのは、誰だった?

――私の、最後のわがままだから。

 そう託されたのは、誰だった?

――ああ、約束するよ。
  この子は、きっと私が幸せにしてみせるから

 そう誓ったのは、

――お願いします、あなた。

 私だ。
 自分が、この子を、あんな風にしてしまったのだ。
 彼女に、約束したはずなのに。
 この子を愛してやれるたった一人の人間だったはずなのに。
 たった一人の――この子の親が!
 
 その時にはもう、貴一は跪いていた。
 膝をついて、何の躊躇いもなく小さな体を抱きしめていた。
 数年越しに抱きしめた我が子の感触に、彼は愕然とした。
 ああ、その体のなんと小さな事か。
 ああ、その体のなんと冷たい事か。
 もう五歳になるだろうに、まるで生まれたばかりの赤子のようなか弱い命。
 その全てを両腕に収めたまま、彼は泣いた。
「すまない……」
 腕の中の体が、逃れようとするかのように小さく動く。
 この子には判っていないのだろう。
 今、自分が父親に抱かれている事など。
 奪ったのは、他でもない自分自身だ。
「すまない、すまない、すまない………っ」
 止め処なく涙が零れる。
 構わなかった。
 小さな体を抱きしめたまま、ただひたすらに謝り続けた。
 許されるなどとは思っていなかった。
 許されようとも思っていなかった。
 それでも、謝らずにはいられなかった。
 ありったけの心で、彼は少年を抱きしめた。
 こんな事で、自分が奪ってしまった時間が戻ってくるなどとは思えなかったけれど。
 それでも、そうせずにはいられなかった。
「ぁー………」 
 言葉にならない声が聞こえて、貴一は少しだけ体を離した。
 彼の腕の中、まっさらな一対の光が、彼を見上げていた。
――あなた は だあれ ?
 そう問われたような気がした。
 だから、彼は微笑んだ。
 ぐしゃぐしゃに泣き濡れた顔で、無理矢理に浮かべた、精一杯の優しい笑顔で。
 お父さんだよ、と。
 私が君のお父さんなんだよ、と。
 今までずっと寂しい思いをさせてごめんね、と。
 これからは、ずっと一緒だから、と。
 愛しているよ、と。
 四年越しに、ようやく取り戻す事ができた我が子へ。
 そう、伝えようとした。

 思えばそれは、そうなるべくしてそうなっただけの事なのかも知れない。
 幸福を求める事は、誰にでも許された権利だ。
 だから、誰にもそれを責める事なんてできない。
 妻を失った夫はただ孤独で。妹を失った姉はただ無力で。
 互いの欠落を埋めるために寄り添って、また一つ失って。
 それでも、二人は幸せになろうとして。
 それが過去を忘れ去る事で手に入れた仮初のものだったとしても。
 二人は、幸せだったのだから。
 だからそれは、そうなるべくしてそうなっただけの事なのだろう。
 それでも、もしも、と考えずにはいられない。
 もしも、彼女の娘が風邪をひく事無く、この家に留まっていたのなら。
 もしも、彼女が自分の娘より少年の事を優先していたのなら。
 もしも、彼女が少年の事を覚えていたのなら。
 もしも、彼が少年の事を忘れ去ったりしなかったのなら。
 もしも、彼がこの日にこの家にいなかったのなら。
 もしも、彼がそもそも少年の事を愛する事ができていたのなら。
 きっと――もっと違った結末もあったのだろうに。

 自分の腹部に生まれた違和感に、彼は視線を下ろした。
 これは、なんだろう。
 服を、皮膚を、肉を切り裂いて、己の腹腔へと潜り込んでいるナニカに、彼は首をかしげた。
 黒い、黒い、黒い、剣。
 遠い記憶の中にある、あの忌まわしい色が。
 今、彼の体を貫いていた。
 顔を上げる。
 視界に映る、幼い我が子は。
 本当に無垢な、赤子のような表情のままで。
 
 だからそれは、そうなるべくしてそうなっただけの事なのだろう。

 歩いていくと、急に、目の前が真っ暗になった。
 なんだろう、と――そう言葉にして思考することなど少年にはできなかったが――思っているうちに、何か大きなものに押さえつけられた。
 跳ね除けようと手足を動かしてみたが、その大きな何かはびくともしなかった。
 それどころか、より一層強い力で少年の体を拘束した。
 動けない。
 進めない。
 ああ、けれどそんな事よりも。
 あの、大きい綺麗なものが見えなくなるのは、嫌だ。
 少年にそれほど確たる意志があったかどうかは定かでは無い。
 定かでは無いが。
 どうすればいいかは、もう知っていた。
 細い腕を影が覆う。
 黒く黒く塗り潰し、刃を形作っていく。
 牢も、床板も、扉も、邪魔なものは全部これでなくなった。
 だから。
 この邪魔なものも、きっと、これでなくなるはずだから。
 腕を振るう。
 ざくり。
 ざくりざくりざくり。
 ばらばら、と崩れ落ちる。
 ばしゃり、と全身が濡れる。
 あたたかい――少年がその言葉を知っていれば、そう思っていただろう。
 けれど、そんな言葉など知るはずも無く。
 それがどんな意味を持っているのかも知らず。
 ただ初めての感覚に、ほんの少しだけ驚いて。

 本当にただそれだけで………邪魔なものは、永遠に失われた。


 赤く、大輪のように染まった白い雪。
 ただそこにある、一つの終り。
 それを見下ろすかのように、高い高い空の上で、銀色の月が咲いていた。




 after birth /

 雪深い山道に少年は倒れていた。
 あの後、空に浮かぶ月を追いかけて歩き続けた末に、ここで力尽きて倒れたのだ。
 少年の意識は、途切れかけていた。
 雪はもう止んでいたから埋もれてしまうような事は無かったが、地面を覆い隠すほどに積もった
雪は、倒れ伏す少年の小さな体から容赦なく熱を奪っていった。
 少しずつ薄れていく意識の中で、けれど少年は恐れていなかった。
 少年は生の意味を知らない。
 だから今、緩やかに訪れる死への恐怖もまた知らなかったのだ。
 ただ、潮が満ちるかのように全身を包んでいく睡魔に、抗う事も無く瞼を閉じ――

「おい小僧、死んでるか」

 そんな声に、瞳を開けた。
 そちらの方を見ようとして、少年は自分の体が動かない事にようやく気付く。
 その声は随分と高いところから投げかけられているらしい。
 少年は赤子特有の反応から、眼球の動きだけでは捉えられないその姿をなんとか視界に収めようと試みるが、どうしてもその声の主を見る事は叶わなかった。
 それでも、少年の行動はその相手に何らかの関心をもたらしたらしい。
「なんだ、生きてるのか?」
 多少の驚きを含んだ声。
 だが、それに意味ある返答をする事など少年にできるはずも無く。
 やがてはその身を苛む睡魔に負けて、二度と目覚める事の無い眠りの淵へと沈んでいく。
「おら、まだ死ぬな」
 ごす。
 鈍い音と、それ以上に激しい痛みによって少年の意識は覚醒した。
 よりにもよってその声の主は、倒れ伏す少年の頭を蹴りつけたのである。
「この俺が訊いてんだ、死ぬなら答えてからにしろ」
 無茶苦茶な物言いであった。
 もっとも、自分が何を言われたのかなど少年には理解できなかったが、それでも『痛み』に対する反射的な反応から、見えないその相手に向けて無意識の敵意を向けた。そして、その敵意は一つの現象を作り出す鍵となる。即ち、じわりと染み出した黒い影が少年の腕を包み込んだのである。
 が、そこまでだった。
 最早少年には立ち上がることはおろか腕を動かす余力すら残っておらず、その腕を覆う黒影も瞬きのうちに解けて消える。後に残るのは、抵抗すらできない無力な少年と、常識外の現象を目の当たりにした何者かだけだった。
 常識の内に生きる者は超常の存在を容認できない。
 あらゆる生物にとって、己と違うという事はそれだけで存在してはならないものなのだから。
 人間もまた然り。
 いかに人間が社会性の生物であるとは言っても、本質においては何も変わらない。
 故に、そのような存在と出会ってしまった時、人間が取る行動は二つ。
 逃亡か排斥だ。
 そして、その声の主が選んだ行動は。
「はぁ?」
 そのどちらでもない選択肢だった。
「おいコラ小僧、なんだそりゃあ、あぁ?」
 がす。
 硬い爪先が少年の頭を小突く。
「てめぇな、他人に殺意向けたんならちゃんと最後までやれよ、おい」
 げし。
 三度目、身動きすらできない子供の頭を容赦無く蹴る。
 もっとも、『彼』が本当に容赦無く蹴っていれば少年の首は今頃サッカーボールのように千切れ飛んでいただろうが、少年がその事実を知るのはまだ随分と先の事になる。
「ぁー……あ、うー!」
「おーおー、ちっとは元気になったみてぇだな」
 四度目の爪先が持ち上がって、ようやく少年は声を上げた。
 それはどちらかと言えば動物の唸りに近いものだったが、そこに宿る色は確かに怒りと呼ばれる感情のそれだった。まぁ、これだけ無抵抗に蹴られ続ければ誰だって怒りそうなものだが。ともかく、そんな少年の情動など歯牙にもかけず、いっそ面白がってすらいそうな声音で、その誰かは問うた。揶揄するような、嘲弄を含んだ粗暴な口調で、少年に問いかけた。

「――で、てめぇは生きたいのか死にたいのか、どっちだ?」

 その問いに、少年はなんと答えたのだったか。
 ただ天上に咲く銀月だけが、それを静かに見下ろしていた。

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プロフィール

神無月

Author:神無月
神無月(かんなづき)と申します。

主に株式会社トミーウォーカーのPBW『TW2:シルバーレイン』用のブログとしてなんか色々とまったりペースで徒然事が書かれています。
いぇー。

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