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虎鉄語:彼女の事情


幕間です。
本編とは割と関係ございません。


 
 観雪と彼女は歳の離れた姉妹だった。
 彼女が生まれたとき、観雪はもう六歳で、物心もしっかりついていた。
 周囲からもよく「歳の割には利発な子だ」と褒められていたし、自分でも他の子に比べれば大人びていたと思う。もっともそれは今にして思えば、ちょっとばかりマセていた程度のものだったのだが。それでもその頃の自分はそれが自慢で、いつも賢くあろうと、大人であろうとしていた。
 だから、という訳でもないのだろうけれど。
 母に抱かれた彼女が初めて家に帰ってきた日のことを、観雪はよく覚えている。
 それは、寒い冬の夜のこと。
 戸口に立つ、しばらく会えなかった母は、どこか違う人に見えた。
 どこがどう違うとは判らなかったけれど。
 自分の知っている「お母さん」よりも、ずっと強く、ずっと綺麗に見えた。
 不思議そうに見上げる自分に、
――この子があなたのいもうとよ。
 母は微笑んで、「妹」を見せてくれた。
 差し出されたのは、小さないのち。
 ふっくらとふくらんだほっぺたが柔らかそうで、
 指でつっつくとやっぱり柔らかくて、とてもあったかかったのを覚えている。
――今日から観雪はおねえちゃんね。
 そう言って微笑んだ母の目は、とても優しい色をしていた。
 おねえちゃん。
 確かめるように口にすると、小さな胸の奥がとても暖かくなった。 
 私はこの子のおねえちゃんなんだ。
 そう思うと、嬉しくて嬉しくて、うさぎみたいに飛び跳ねたくなった。
 きっとその時、幼い自分は決めたのだ。
 この子は、この小さないもうとは、きっと私が守ってみせる。
 だって――私はおねえちゃんなんだから。
 それからしばらくして、その子がとても弱い生き物である事を知った。
 生物的に赤子が弱い、という話ではなく。
 その子は生まれた時から、他人よりずっと弱いのだと教えられた。
 事実、妹はよく入院した。
 ちょっとした風邪にも父と母は過敏に反応して、いつも彼女ばかり気にかけるようになった。
 逆に自分はあまり構ってもらえなくなったけれど、それを不公平だと思ったことは無かった。
 そんな不満を抱くには、妹はあまりにも弱すぎたのだ。
 今でも強く覚えている。
 ある冬の日、公園で一緒に遊んでいた妹が、突然倒れたときの事を。
 繋いでいた手が急に重たくなって、なんだろうと思って振り向くと、壊れたおもちゃの人形のように倒れ伏す妹がいた。驚いて声をかけてみても妹は苦しげに息を吐くだけで、どうする事もできない自分は助けを求める事さえできず、気付いた母親が駆け寄ってくるまで、ただ妹の手を握っているだけしかできなかった。
……その日から一週間、妹は家に帰ってこなかった。
 結局その日、何故妹が倒れたのかを両親は教えてくれなかったけれど。
 あの手の平の熱さは、今もはっきりと思い出せる。
 守ってあげられなかった。
 何もしてあげられなかった。
 私はあの子のおねえちゃんなのに。
 その苦い苦い想いと共に、消える事無く刻み込まれている。
 そして、時間は流れていく。
 弱かった彼女も少しずつ強くなって、それでも観雪は過保護なまでに彼女を守り続けた。
 雛を守る親鳥のように、彼女を守り続けていた。
 ずっとずっと、あの手の平の熱さが忘れられなかった。
 守ってあげなくちゃいけない――そう、思っていた。
 だからだろうか。
 彼女に男との婚約の話が持ち上がった時、一番反対したのも観雪だった。
 友人の友人の友人という、少し年上の男。
 いい人間だとは思っていた。悪人だとは思えなかった。
 それでも、妹にはもっと相応しい人がいる、と反対した。
 そういえば、難色を示す両親に頭を下げに来た男に掴みかかった事もあった気がする。
 二人の結婚が決まった後ですら、自分だけは許さないと言い張っていた。
 許さないと。
 何度も何度も叫んだ。
 それを許したのは、彼女が笑っていたから。
 結婚式の朝。
 死んでも出席などしてやるもんかと閉じ篭っていた部屋に入ってきて、
 蹲って子供のように駄々をこねる自分の手を取って、
 あの子は言ったのだ。

――お姉ちゃん。
――私はきっと、あの人と出会うために生まれてきたのです。
――あの人に愛されるために、今日まで生きてきたのだと、私はそう思ったのです。
――だから、私の大好きなお姉ちゃん。
――どうかあの人を、許してあげて。

 そう言って微笑んだあの子は、いつか見上げた母と同じ目をしていた。
 その目を見た瞬間、自分でもよくわからない感情が胸を締め付けて。
 だから、もう何も言う事はできなかった。
 そしてあの子は、観雪の手を離れていった。
 それからはなんとなく妹とも疎遠になってしまい、滅多に顔を会わせる事もなくなった。
 そうしてまた月日は流れる。


 彼女が男の元に嫁いでいってから、数年が経った。
 その頃は観雪自身もある事情から――正直、思い出したくもない事があって――実家を離れていた。自分を知る誰とも会いたくなくて、今の自分を見られてしまう事がひどく恥かしい事のように思えて、とにかく「どこか遠くへ行きたい」というその一心で。職を変え住む場所を変え、ボロボロの心と生まれたばかりの娘だけを抱えて、二人きり、細々と生活していた。
 逃げるように。隠れるように。
……だから、それを知らなかった事について、観雪は誰を責めようとも思わない。
 ある冬の日、どうしようもない孤独に駆られた観雪は、久しぶりに妹の元を訪ねた。
 胸には小さな赤ん坊を抱いて。
 田舎へと向かうバスに揺られながら、色々な事を考えた。
 男の顔を見たら、自分はまた嫌な顔をしてしまうんだろうな。
 けどひょっとしたら、意外とすんなりと受け入れる事ができるかもしれない。
 その時は、謝まって、うん、お礼を言おう。
 妹を幸せにしてくれて有難うと、そう言おう。
 許してもらえないかも知れないけれど、きっとあの子は喜んでくれるから。
 そうだ、あの子に会ったら、最初になんて言おうかな。
 まずはこの子を見せてあげて、あなたもこれでオバサンになったのよ、とからかってやろうか。
 あの子はそれでもきっと喜んで、笑顔で私を迎えてくれるのだろう。
 そうしたら、私は泣いてしまうんだろうな。
 ううん、それでもいい。
 たくさん泣いて、たくさんの事を話そう。
 子供の頃の事や会えなかった間の事を話して……またおねえちゃんって呼んでもらおう。
 そんな事を考えて、ふと見上げてみた空は、綺麗な澄んだ青色で。
 窓に映った自分の顔が、本当に久しぶりに微笑んでいる事に気がついて。
 そんななんでもない事が、とても素敵なことだと思えて。
 数年ぶりに、姉は妹に会いに行った。
 そうして観雪は知る。
 白い雪が舞う夜。
 もう一週間以上も前に――妹が、死んでしまっていたことを。
 生気を失った抜け殻のような男に案内された部屋で、彼女は微笑んでいた。
 物言わぬ遺影の中で。
 何も変わっていない、あの頃と同じ笑顔のままで。
 その時の事を、観雪はあまりよく覚えていない。
 男がなにかを謝っていたようにも思う。
 何も言っていなかったようにも思う。
 赤ん坊が泣いていたかも知れない。
 泣いていたのは自分だったかも知れない。
 けれどただ一つだけ、確かに言える事がある。
 写真の中で笑う彼女を見た瞬間に、判った。
 いつか、彼女の微笑みを見た時に感じた事が、今度こそ本当に、わかった。

 ああ、私はもう――おねえちゃんじゃないんだな。

 あんなにも弱かったあの子は、もう一人で歩いていった。
 自分の足で、最後まで歩いていけたのだから。
 もう、私が手を繋いでいてあげなくてもいいんだ。
 ようやく、そう理解した。
 胸を過ぎった感情は、少しばかりの寂しさと、僅かばかりの後悔と。
 名前もわからない心の動き。
 怒りもあった。悲しみもあった。妬みも、あったかも知れない。
 それでもそれは、とてもあたたかく感じられたから。
――ああ、あなたは幸せだったのね。
 自分でも気付かないうちに、そう口にしていた。
 胸の奥の、あの日から消えなかった手の平の熱さが、いつの間にか消えていた。 
 その後、観雪は男と少し話をした。
 内容は他愛もないことだったように思う。ぽつりぽつりと言葉をやり取りした程度。第一、男は自分以上に打ちのめされていたのだから、話が弾むはずもない。そして観雪も、それを特に気にしなかった。娘を抱いて、ただ曖昧に笑っていただけだ。
 あの子がいないのなら、もう自分をここに引き止めるものもない。
 早く話が終わってくれないだろうか、なんて事さえ考えていたかも知れない。
 何か、ずっと背負っていた荷物を下ろしたような気分だった。
 あの子が自分の重荷になっていただなんて思いたくはなかったけれど。
 それでも、何かがどこかに、ストンと音を立てて落ちてしまったような気がしていた。
 そういえば実家にもしばらく帰っていなかった。折角だから、一度帰って両親にこの子を見せてあげよう。父さんには怒られるかも知れないけれど、母さんには泣かれてしまうかも知れないけれど、それならそれでいいと思う。頭を下げて、お願いしよう。どんなに惨めでも、不恰好でも構わないから許してもらって、それでまた、家族で一緒に暮らすんだ。
 自分は、もうおねえちゃんじゃないのだから。
 私はこれから、私として生きていこう。
 私として、この子のお母さんとして、二人で一緒に生きていこう。
 そんな事を思っていた。
 本当に、そう思っていたのだ。
 男の後ろ――開いた襖の向こう側、
 小さな寝息を立てる、涅色の髪の赤ん坊を見るまでは。
 どくん、と音を立てて。
 観雪の心臓を、覚えのある「熱さ」が締め上げた。
 小さな布団の中で、すやすやと寝息を立てる小さないのち。
 あれは、
 あれは、
 
――「あの子」じゃないだろうか?

………気がついた時には、男に「この家において欲しい」と頼み込んでいた。

 その日から、観雪の新しい生活が始まった。
 男と娘とあの子と自分。
 四人での生活は、観雪にとって心地良いものだった。
 初めの頃は鬱々としている事が多かった男も徐々に明るさ――観雪と初めて出会った頃のような――を取り戻し、笑顔を見せることも増えた。突然押しかける形で男の屋敷に住みついた自分達への周囲の視線は冷たいものだったが、それも時間と共に薄れていくだろう。何より、観雪は楽しかったのだ。胸弾ませるような出来事もないが、子供達の成長に二人で一喜一憂し、笑みを交わす事ができる生活が。さしたる贅沢ができる訳でもないが、ふと気付いた時、笑顔でいられる穏やかな日々が。
 いつしか観雪は、胸を締め付ける、あの手の平の熱さを忘れている自分に気が付いた。
「あの子」の髪に、妹の面影を重ねていない自分に気が付いた。
 それでいいと思った。
 始まりがどんな形であったとしても、今、自分はこの生活を愛している。
 愛する事ができているのだから。
 罪悪感がない訳でもない。自分勝手だと自分でも思う。
 或いはいつか、あの子に怒られる事になるのかも知れないけれど。
 それでもどうか、叶うのならば、このままで……

 けれど、彼女の願いは叶わなかった。
 春が過ぎ、夏が去り、秋は瞬き、また冬が訪れて。
 
 その日、観雪は朝方から家を開けていた。
 仕事が休みだった男に子供達のお守りをまかせて、町まで買い物に出かけていたのだった。
 普段、生活に必要な細々としたものは村の販売所で揃えていたのだが、この日だけは少し遠出する必要があったのだ。毎食の材料くらいなら販売所でも手に入るが、ちょっと凝ったものを作ろうと思うとやはり町の大型量販店にまで足を伸ばさなければならない。生活に支障が出るほどではないとは言え、やっぱりここは田舎なんだな、と改めて実感する。
 窓の外を流れていく景色に目をやりつつ、膝の上に置いた小さめの箱に手をやった。
 箱の中には、町で買ってきたケーキが一つ入っている。
 真っ赤な苺ののった、ショートケーキが入っている。
 その日は「あの子」の一歳の誕生日。
 生まれてきたことを、生まれてきてくれたことを祝う日だった。
「あの子」にはまだ誕生日の意味なんて判らないのだろうけれど、それはきっと、とても大切な事だと思うから。
 だから、たとえいつかは忘れてしまうのだとしても。
 生まれてきてくれてありがとう、と言ってあげよう。
 頭を撫でて、優しく抱きしめてあげよう。
 いつか贈られた言葉を思い出せなくなったとしても、その想いを覚えていられるように。
 バスが止まる。
 それに気付いて、何気なく見上げてみた空は、綺麗な澄んだ青色で。
 そんななんでもない事も、とても素敵なことだと思えて。
 そういえば、窓に映った自分の顔は笑っていただろうかと考えて。
 穏やかに微笑んだまま、観雪はバスを降りた。

 家の近くまで帰り付いた頃には、もう太陽が傾き始めていた。
 冬の夜は早い。この村では殊更だ。
 あと少しもすれば、空一面がそれは綺麗な茜色に染まるだろう。
 ふと気がつけば、足を止めて赤色の気配を湛えた空に見惚れている自分がいた。
 いけないいけない、こんな事をしている場合じゃあなかった。 
 さぁ、早く家に帰ろう。
 今日はあの人もお休みだから、お夕飯は少し豪勢にしてみようかな。
 その前に洗濯物を取り入れないといけなかったっけ。
 あの人がやってくれていたら嬉しいのだけれど。 
 あの子達は大人しくしているだろうか。
 いつもは静かだけれど、案外わんわん泣いてあの人を困らせているかも知れないな。
 同じ屋根の下で過ごす「家族」達の顔をじゅんぐりに思い浮かべながら、観雪は玄関をくぐった。
 そして、
「あああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!!」
 悲鳴を、聞いた。
 魂を根こそぎに引き裂かれたようなその声は、果たして誰のものだったか。
 思い至るよりも早く観雪は走り出していた。
 走り出してから、気付く。
 もう忘れてしまっていたはずの、心臓を締め付けるあの「手の平の熱さ」。
 それが今、甦っている。
 嫌な予感がした。
 靴を履いたまま廊下を駆け抜け、真っ直ぐにいつも子供達が寝ている奥の間を目指す。
 胸の奥の熱さは今や痛いくらいの熱量をもって観雪の心臓を締め上げている。
 予感は確信に変わり、鼓動よりも速く思考を焼く。
 なんて熱い。このまま焼け落ちてしまいそうだ。
 見えざる腕の束縛に喘ぐ心臓を抱えて走る。 
 頭の中はとっくに真っ白。視界すら白に飲み込まれていく。
 まるで、いつかの夜のよう。
 白い雪が舞う、大切な誰かに置いていかれたあの夜のような。
 何も考えられない。何も見えない。
 それでもただひたすらに、熱に浮かされたように、観雪は走った。
 幾度か角を曲がり、いくつかの襖を開けて。
 辿り着いた、その場所に。
 わぁわぁと泣き声をあげる赤ん坊と、
 今にもその子達にとびかからんとする男がいた。
「やめて!」
 観雪は咄嗟に、男と子供達の間に身を投げ出した。
 どけ、と男が叫ぶ。
 血走った目をいっぱいに見開いて、どいてくれ、と叫ぶ。
 どいてくれ、殺した、彼女を、バケモノだ、殺殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやるしてやる殺してやる――!!!
 いっぱいに開かれた口腔から溢れる夥しいまでの呪詛。
 憎悪という名の色で染め上げられた絶叫を、男は観雪に浴びせかけてきた。
 男の形相は明らかに正気のそれではなかった。
 そのあまりの剣幕に思わず後退りしそうになるのを懸命に堪えつつ、背後、子供達の方を窺って、
「ひ――」
 観雪は赤ん坊の横に倒れ伏す、犬の屍骸を見た。
 全身を隈なくナニカに刺し貫かれたのだろう無残な姿。赤黒い血と千切れ刻まれた臓物にまみれた毛むくじゃらの肉塊がそこに転がっている。酸鼻を極めるその光景に小さく悲鳴をあげながらも、彼女の中のどこか冷静な部分は状況を理解しようとしていた。
 そういえば、近頃このあたりに野犬が出たと誰かが言っていた気がする。
 あの犬がその野犬だったのだろう。
 そして、多分この犬は彼が殺してしまったのだ――そう、この子達を護ろうとして。
 けれど彼は元々優しくて大人しい人だったから、気が動転してしまっているのだろう。
 きっとまだあの子達が襲われると思っているんだ。
 あの子達を守ろうと必死になっているだけなんだ。
 そうだ。そうに違いないんだ。
 だから、早く教えてあげなくちゃ。もう大丈夫だよって、安心させてあげなくちゃ――
 それは理解というよりも希望に近いものだった。
 それでも観雪は、そう理解した。そう、理解しようとしていた。
 そうだ、そうに違いない。そうじゃないといけないんだ。
 だってそうだ。
 それにしてはなにかがおかしいだなんて、そんな事、気付いてしまってはいけないのだから。
 それなのに。
 そのはずなのに、自分は疑問に思ってしまっている。
 その違和感を、見逃すことができずにいる。
 そう、何故?
 理解スルナ――
 野犬の体は見るもおぞましい程に引き裂かれているというのに、何故彼の服には汚れ一つついていないのだろう?
 理解スルナ――
 野犬の傷は明らかに刃物によるものだというのに、何故彼の手には何も握られていないのだろう?
 理解スルナ――
 野犬の屍骸はあの子達のすぐ傍に落ちているというのに、何故彼はあんなにも離れた場所に立っているのだろう?
 理解スルナ――
 そして。
 理解スルナ――
 ああ、そして。
 理解スレバ私ハ――

 何故「あの子」はあんなにも、血に、塗れて、いるの、だろうか?

 男はなおも叫んでいる。
 バケモノ、彼女を、殺した、ソレが――
 
 ソレが殺したんだ――

「あの子」を真っ直ぐに指差して、叫んでいる。  
  
――私ハキット、狂ッテシマウ

 膝を突いた。
 体と心を繋ぐ糸がぷつりと切れてしまったように、自分を支えている事ができなくなった。
 世界が崩れ落ちる音を聴いた。
 感情が停止する様を視た。
 理性が解けていく匂いを嗅いだ。
 自分が消え失せる味を識った。
 ただ、心臓を締め付ける、そのてのひらのあつさだけを、感じながら、

 私はわたし/世界を手放した。

 そこからの記憶は、ひどく曖昧なものだった。
 激昂する男に縋り付いた気がする。
「あの子」を殺そうとする男を思い止まらせるために、幾つもの言葉を重ねた気がする。
 何を言ったのかはよく覚えていないけれど、妹の名前を何度か口にした気がする。
 よく覚えていない。
 けれど結果として、彼はそれで止まってくれた。
「あの子」がまだ生きているのだから、きっとそういう事なのだろう。
 それは或いは、妹を利用する行為だったのかも知れない。
 彼の、妹への想いを利用する行為だったのかもしれない。
 その事に対する罪悪感は、不思議と無かった気がする。
 だって、私は今度こそ「あの子」を守る事ができたのだから。
 私は今度こそ、「妹」を守る事ができるのだから。
 そうして、私は今ここにいる。
 一切の光が届かない、暗い暗い、闇の底。
 彼の屋敷の隅にひっそりと建てられた土蔵の地下、遠い昔に使われていたという座敷牢。
 こんな檻の中に閉じ込めてしまう事を、けれど可哀想とは思わない。
 だってこれは、「あの子」を守るため。
 この中にいれば、誰も「あの子」を傷つけたりはしない。
 この中にいれば、誰にも「あの子」を傷つけさせたりはしない。
 冷たい鉄格子越しの向こう側、暖かな布団の中で、「あの子」は眠っている。
 さっきまではあんなに大声で泣いていたのに、きっと泣き疲れてしまったのだろう。 
 静かな、本当に静かなこの場所では、「あの子」の小さな寝息すらはっきりと聞き取れてしまう。
「大丈夫……もう、大丈夫よ……今度こそ私が守ってあげる。あなたの事を守ってあげる。もう二度と、手を離したりなんかしないからね……ずっとずっと、あなたの手を握っていてあげるわ……だから、大丈夫だからね……もう大丈夫だからね……? 安心していいのよ……安心して、ゆっくりとお休みなさい。大丈夫だから……今度こそ私が――お姉ちゃんが、守ってあげるから」

 冷たい、本当に冷たい鉄格子に手をかけて。
 とても愛しそうに、とても優しい瞳で、とても美しい微笑で。
 観雪は笑った。

「おかえりなさい――××」

 そこは冷たい闇の底。
 孤独の揺り籠に抱かれて、少年は眠り続ける。

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プロフィール

神無月

Author:神無月
神無月(かんなづき)と申します。

主に株式会社トミーウォーカーのPBW『TW2:シルバーレイン』用のブログとしてなんか色々とまったりペースで徒然事が書かれています。
いぇー。

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